実体験するまでは、正直、在宅で看取るのは理想だと思い込んでいたと思う。
しかし、緩和ケアの病室で父親を看取るだけでもとても難しいことなのだと実感した。
医療に関わる人ならば、緩和ケアを受け入れる事はできるのだろうが、うちの父のように、癌サバイバーとして生きていない患者家族は、全く現実を受け入れる時間も与えられない。
先のエントリーにも書いているが、患者本人の病気の進行に対して患者家族にはその進行がどんなものなのか理解するにはあまりにも厳しいのだということも初めて理解した。患者ならば自分の身体の変化を感じるのだろうが、家族にそれを理解させるというのは、医療者と家族に信頼関係が出来ていないと不可能な事だとも学んだ。
訴訟が何故起きるのか、それも、良く理解ができた。
末期癌患者の家族は、インターネットで様々な情報検索を行っていると思うが、その情報の大半は、非科学的な「こうして癌は治った!」「抗がん剤は打つな!」「癌は放置せよ」「余命宣告は当たらない」等々、目の前の死期の迫った家族からの現実逃避をさせてくれる根拠のない情報に癒しを求めているものだ。
ちょっと患者の体調の良い日があれば「祈りが通じた」「奇跡は起こる」と真顔で言いだす人が多いのも仕方のない事なのかもしれない。そんな弱みにつけこんで、純粋な祈りはビジネス化されていて、大切な時間を奪っていくものだと知った。残された大切な時間はまもなくお別れになる家族との対話に1分でも費やした方がいいだろうし、お布施にお金を使うなら莫大な医療費と葬儀代に費やした方がいい。けれど、日に日に悪化する患者を目の前にした家族は全力で現実逃避をする。死を怖がるのは患者だけではない、家族もそれ以上に怖がって現実逃避をする。
医療者じゃないのだから日に日に弱っていく家族を在宅で看るなんて実は不可能に近いのだと気付かされた。
「地域包括ケアシステム」なんて、医療業界だけの業界用語で、そんなもんを理解できる国民なんて1%にも満たないはずだ。厚労省が掲げているこの机上の空論は、この先、高齢者医療だけではなく、医療不信を加速させるのだろうとも思う。
厚労省資料を読んでみて こんなの机上の空論通り越して妄想癖のある人が考えたメルヘンとしか思えないんだけど…。
誰もが自宅で死ぬことは理想とするだろうけど、病院だって、簡単ではない看取りをどうやって一般人に託すというのだろう?
どうやって普通に生活しかしてない人達に、看取らせようとしているのだろう?いつ、誰が、どこで、その辺の普通の人に「人が死ぬ時」の教育をしたのだろうか?どうして家族が受け入れられると思うんだろう?
親が力尽きるのをひたすら待つ時間を待つというのがどれほど厳しいものなのか…。私も体験して初めて理解した。
そして、何より、現役で働いている年代には、在宅で看取るなんて不可能に近い。政府が、介護離職ゼロとか口にしてるけれど、もはや、メルヘン、ファンタジー、ラブコメです。
長引けば長引くだけ、現役労働者は、仕事を辞めるという選択しかできなくなるはずだ。
闘病中だけではない、亡くなった後だって、複雑怪奇な行政の手続きをしなければならず、現役労働者はそんな事で休んではいられないのだが、仕事を休まない限り、手続きは行えない。
地域包括ケアシステムとかいうファンタジー的理想論を本気で推し進めようとしているのだと思うけど、大量の離職者を生み出す上に、家族がトラウマになるだけだと思う。
残された人達の心のケアは一体誰がしてくれるのだろうか?
そんな疑問を持つようになった。
少なくとも、私の家族は、緩和ケアに対する不信感しか残っていないように思う。